日系人の話し
今日は日系人についての歴史を書く
日系人は日本人と外見は似てるが文化や育ちが違う。
日本語は殆ど話せない人が多い。
宇多田ヒカル(皇紀2643年1月20日生まれ)はニューヨーク育ちで日本に来てから日本語を学ぶのに苦労した。
米国なら英語だけで小さい時から育ってきた。両親が日本人であっても珍しいことではない。そもそも日本語を使うとしたら観光業くらいと職種が限定される。
日系人で多いのが、米国のハワイやカリフォルニアとブラジルである。
彼らの歴史を書いていく。
ブラジル
戦前から日本は土地を開拓するために、ブラジルに移り住んできた。
明治の初期から非合法ではあるが入植してきた。ブラジルはもともとイタリア系の移民を受け入れてきた。しかし、低賃金であることを不満に暴動が起きた。
日本人の入植は20世紀に入って間もない1905年である(明治38年)
しかし、日本人もまた奴隷のように酷使された。日本人への扱いはゲルマン人やラテン人以下であった。そして逃亡するものも多かった。
逃亡した日本人は自ら農地を開拓する。日本人同士で出資して農作物を売る。
そして日本人街まで建ててしまったくらいだった。
日本人学校も多く建てられた。日本は当時労働力は豊富にあった。しかし、農地不足で新しい土地を求めて広大なブラジルへ出稼ぎに行くものも少なくなかった。
日本人が出資した農園は賃金が確りと払われるようになっていたそうだ。
悲劇は1930年代から起きてしまう。
世界恐慌で農作物は売れなくなり、失業者がブラジル合衆国内にあふれてしまった。
ヴァルガス大統領は帰化を停止させ、公用語をポルトガル語に限定し日本語学校を閉鎖させた。
南米はラテン人でありゲルマン人からはあまり信用されてなかった。
後に書くが移民法と同じ制度を導入する。
日本語を話しただけで逮捕された。そこで日系人はポルトガル語を勉強し、祖国に忠誠を誓った。
そして第二次世界大戦ではブラジルは連合国につく。終戦直前日本に宣戦布告する。
ポルトガルは中立国になる。
そして、戦後はポルトガル語を話せる日系人は就職や進学出来て、そうでないものは押しのけられた。同じ日本人の血が流れているのに対立構造を生んでしまった。
高度経済成長期はブラジルにも訪れる。日系人の働きである。勤勉な日本人の魂だからこそ乗り越えられた。
さらに国会議員や閣僚、鉱山長官や商工長官が誕生した。
1980年以降、日本からブラジルへの移民は大きく減少した。
しかし、バブルがはじけると日系ブラジル人が逆に日本へ出稼ぎに来る。
そして1990年に入管規制法が可決される。
しかし、そこでも悲劇が起こる。逆に日本で日本語を話せない日系人が差別を受ける。
公立学校になじめずインターナショナルスクールに通う児童もいる。
また、アパートを借りられない人も珍しくなかった。
民族は日本人同士なのに差別が後を絶たないのである。
アメリカ
米国のケースについて書いていく。
江戸時代は鎖国中だったが船が難破して米国へ着いてしまった日本人も少なからずいた
しかし、帰国できたのは平松善松のみである。
スパイ防止法の一環として異国船打ち払い令が出された。
中浜万次郎は土佐藩士で米国に漂着した。米国の先進的な文明を学んで帰ってきた。
明治になりハワイやカリフォルニアへ出稼ぎに行く日本人が多かった。
しかし、日露戦争以降、移民が増えることと黄禍論を唱えるゲルマン人が増えた。
当時ゲルマン人特に英国やドイツに米国やフランスは植民地をあちこちに支配していた。
やがて日本人に奪われてしまうのではと危惧された。
セオドアルーズベルトは日系児童隔離政策や日本人と米国人の混血を認めない優生保護法に近い法案に否定的だった。
しかし、準州だったハワイ経由の日系人は帰化を認められなかった。
これにより日系移民は規制されてしまう。
日系人は土地を取り上げられ、職を失った。
同じ米国人なのにアフリカ系より下に日本人は扱われた。
そして大東亜戦争の時に、片っ端から収容所に入れられた。
そして彼らは英語を話し祖国米国に忠誠を誓ってることをアピールした。星条旗を暗唱し、自分たちは米国人以上に米国人だと示した。
そうして家族を助けようと必死だった。
日系人からなる442部隊は過酷な軍隊だった。最前線でヨーロッパでナチス率いるドイツ軍と徹底抗戦した。そして死傷率314%と多大な死者を出した。(連隊には定員数が決まっていてて、全滅してから総入れ替えする。4回総入れ替えをした。)
あのダニエルKイノウエもその一人だった。彼は右腕を失ってしまった。
イノウエは日系人として初めて民主党から上院議員になった。慰安婦問題については過去に謝罪したから追加は不要と述べた。オバマの広島訪問も高く評価した。
しかし、戦後になっても日系人は祖国に帰ってもなお差別を受けた。
日系人はアフリカ系米国人からも差別を受けていたのである。
1960年代、越南戦争で有色系米国人は自ら前線を買って出た。
その結果、公民権法が可決された。ケネディとジョンソンの時代だった。
1965年に移民法が改正され日系人が帰化できるようになった。
人種差別撤廃運動は1960年代からである。第二次世界大戦で日本軍は勇敢に戦ったことは米国に脅威を与えた。
日常生活では白人専用トイレとかバスでも有色人種は乗るななど彼らは肩身狭かったのである。
ところが1990年代に民主党のビルクリントンの時代に従軍慰安婦問題が米国で取り上げられるとまた日本人差別が始まった。
日常では学校や職場でのいじめが後を絶たなかった。
またサンフランシスコに慰安婦像が立ってしまった。日本政府は1994年に謝罪をしてはいるがそもそも慰安婦は売春婦だった。日本は奴隷制度など一度もなかった。
また民主党のクリントン夫妻やオバマ元大統領は靖国神社に否定的だった。その一方でトランプ大統領がメキシコの国境の壁を立てることには否定的である。
日本人差別する一方で、移民は歓迎するのが民主党議員には少なくないのだ。
米国での人種差別との戦いはまだまだ続いているのである。
ではまた