金融の歴史講座 5講

今日から米国の歴史について書く。

 

前回まではソ連スターリンが後を継いだのだが、スターリンは政敵をみんな消した後、5ヶ年計画を2回もやる。そして2回とも失敗したことを書いた。

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そのころのアメリカではウッドロウ・ウィルソンが大統領(皇紀2572~80)を2期8年務めた。しかし、バカなことに通貨発行権連邦準備銀行(FRB)に委託する法案に署名してしまった。

合衆国憲法では通貨を発行することは議会にあると一章8条5項にある。

つまり連邦準備銀行違憲なのである。しかし、憲法は国家権力を統制するものであって一般国民や企業を縛るものではない。

 

ウィルソンは過去に人種差別撤廃条約について国際連盟での日本の要求を退け、全会一致でないので棄却などと傲慢であった。日本は常任理事国であったが、単独で発言できるような組織ではなかった。全会一致ということは99.9%が賛成しても0.1%の為に否決されてしまうのである。

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第一次世界大戦後、戦争を無くすには軍縮だと言ってロンドン会議(皇紀2590年)やワシントン会議(皇紀2581年)が開かれる。

この時のアメリカ大統領は共和党のウォーレン・ハーディングだった。

彼は軍産複合組織や金融組織を弱体化させるために、軍縮を各国に呼びかけた。

戦争がなくなれば軍艦などは要らなくなる。すると軍需産業やそれに投資した金融勢力は衰退すると考えられる。

当時、国際連盟は武力制裁はなく罰則規定もなかった。国同士が互いに平和になるように努めるものだった。

しかし、彼は不幸なことに任期中に死亡していて軍需産業勢力の手で毒殺された疑いさえある。

 

そして副大統領から大統領に昇格したカルヴィン・クーリッジの時に「1924年民法」が可決されてしまう。

基本的に共和党は人種ではなく能力主義だった。

事実、クーリッジは否定的だった。しかし、移民の多いカリフォルニアの要求を無視できなかった。

あくまでこれはアフリカやアジアの移民を規制することで米国人の産業を護る為の法案だった。

セオドアルーズベルト(フランクリンルーズベルトの伯父) は日本人児童隔離政策に批判的であったが、その引き換えにハワイ経由で生まれた人は帰化できなくなった。

 

ここまでで、米国共和党はまだ日本を侵略する気は無かった。

 

そして日本人帰化禁止法まで可決されてしまった。そして、それは事後法つまり一度帰化した人の帰化を取り消すものだった。

 

ここまでは米国の黄金期である。人々は作業の効率化を求めて大量生産大量消費の時代であった。

しかし、そんな好景気も長くは続かなかった。

 

昭和4年(2589年)10月25日(日本時間)にNYのウォール街で株価が暴落する。

 

理由は連邦準備銀行サブプライムローンみたいに低所得層にまでローンをガンガン融資してたからだ。当然銀行からお金が出回らなくなる。

銀行からお金が借りられなくなると銀行の株価は暴落する。そうなると銀行が融資してきた会社の株も連鎖的に暴落する。子会社まで共倒れした。

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この時の大統領はハーバート・フーバー(共和党)で日本は議会制民主国家だから戦争はしてはならないという考えだった。

共和党はどちらかというと日露戦争で講和を斡旋したセオドア・ルーズベルトのように日本を重要視する政治家が多い。

 

そのころ新聞📰🗞特にニューヨークタイムズは当時ニューヨーク州首長だったフランクリン・ルーズベルトセオドア・ルーズベルトの甥)を支持していてフーバー大統領のあら探しをしていた。大統領選挙でもひたすら応援していた。 甥の方は伯父と異なり民主党だった。(以下フランクリンはF、セオドアはTとおく)

 

連邦準備銀行民主党Fルーズベルトを候補に推薦した。

金融勢力は過去に共和党の候補を大統領選に擁立したがリンカーンなどが拒否したので民主党を隠れ蓑に候補を出してきた。

結果、メディアの誘導によって大統領選挙でFルーズベルトはハーバート・フーバーを大差で破った。

 

結果、ルーズベルト独裁が12年始まる。米国大統領は4年2期が慣例で3期超えはFルーズベルトだけである。アメリカの安倍晋三といっても良い(笑)

 

Fルーズベルトニューディール政策を実施する。アメリカンアべノミクスと言える。

 

まず、銀行を4日だけ営業停止にして政府の統制下に置く。営業再開したらお金を預けることを促した。

 

そして公共事業ではテネシー川の工事などを行った。あの手この手で手形を刷りまくった。その結果不良債権が出回る。

 

しかし、それでもルーズベルトの人気は高かった。3期目の大統領選挙で4の自由を公約に掲げて見事当選する。

 

しかし、ルーズベルトの周りにはコミンテルンのスパイが多数いた。

ルーズベルトソ連の計画経済からヒントを得ていた。

これなら景気を回復できると考えたのだ。そして親ソヴィエト派を容認さえした。

 

このとき所得税法人税は99%であった。金持ちから税金をとりあげて一般庶民に回せば景気は回復すると考えた。

 

皇紀2600年代に入りニューディール政策が行き詰まるころ、ルーズベルトはヨーロッパに対してかなり干渉するようになった。武器貸与法に署名し、ヨーロッパ戦線において英仏を支援した。選挙公約では戦争には参加しない、一兵も送らないと掲げたのにドイツを挑発していた。

 

下のグラフは米国のGDPと失業率である。西暦1933年(皇紀2593)にルーズベルトは大統領就任するが初めのほうは上昇し暫く横ばいである。第二次世界大戦勃発の翌年からGDPは急速に伸びてる。武器を大量生産したからだ。

しかし、失業率は全然減少せず、第二次世界大戦勃発から急速に減少している。つまり国全体が豊かになっても国民の生活は変化なしだった。

そこでルーズベルトは戦争に参加すれば失業率はなくなると考えた。

 

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そして真珠湾攻撃をさせるために日本をいじめまくった。それがハルノートである。

日本の作戦行動を全部解読させ、真珠湾におびき寄せようとした。

 

 結果、第一次世界大戦の戦艦だけオアフ島に残し空母はどこかへ動かした。

ではなぜ日本軍はハワイを攻撃したか。

理由は石油基地を破壊して占領することだった。石油基地を占領すればサンフランシスコからホノルルまでの石油ルートを封鎖できる。

 

結局、ルーズベルトは政治生命の為にそして彼を支援する金融勢力の為に戦争をやったのである。

 

次回6講は第二次世界大戦後へ続く