国賓について考えてみた
今日は国賓について書く
国賓とは国家元首クラスの外国の代表である。そして天皇が認めた外国の来賓である。
米国の場合、オバマ前大統領もトランプ大統領も国賓として訪問してる。
その前はリチャードニクソンであった。
さて、日本の同盟国は米国のみである。
同盟国以外にも様々な王侯や政府主席たちが訪問してる。
宮中での晩餐会など通常の訪問とは扱いがことなる。
トランプ大統領は国賓として招かれ、安倍総理大臣と相撲観戦した。
さて本題は筆者が習近平国家主席(総統)の国賓について否定的な立ち位置を立ってることについて述べていく。
女系とは支那がかつてやらかした事例だ。そして易姓革命が起こったからだ。そもそも支那の皇帝とは金持ちから貧乏人の誰でもなれた。
女系天皇の話をしたら喜ぶに決まってる。なんせ、溥儀を退位させてから共和制になっても専制君主の憧れが強いからだ。日本の女性皇族と結婚することは王政復古の出汁になるわけだ。また支那側は金印を明仁上皇に持たせようとした。こんなことが露わになったら日本は支那の属国であることになる。
ところが日本の天皇は神武天皇いやウガヤフキアエズの男系子孫のみが皇位を継承して、他系には渡らなかった。そして権威と権力を分断させた。
小沢一郎幹事長が無理やりスケジュールを変えて習近平総統と明仁上皇を会わせたからだ。
ものの見事当時副総統の習近平は明仁上皇(当時の天皇)を茶化ししらけさせた。
天皇とは友達と会うわけではなく、世界一尊い人に自分の地位を認めてもらうことである。
次に軍事施設を通ってはいけない。
トランプ大統領が国賓の時に護衛艦型空母に搭乗するイベントがあった。
これは同盟国だから許されることである。
しかし、支那は敵国条項を使って尖閣はじめ南シナ海に領海侵犯を度々働く国家である。しかも、江沢民や胡錦濤と比べると習総統の時に増えてる。機密情報に触れさせるなど言語道断。
また支那の国歌は人民軍の歌で歌詞の意味も血生臭い。ドイツの大統領が米国を訪問してもナチの軍歌で歓迎されることはない。
そして中共ではスポーツを国力とみなす傾向があるようだ。ソ連の時に、ドーピングに引っかかるような選手が相次いだ。メダルを増やすと経済が発展する。
サッカーや水泳などはそれに当たる。スリーエス政策とはアジアを占領軍が支配するための手段で第二次大戦後に国力を下げるためにスポーツを広げて関心を経済からそっちへ向けさせた。
中共は日本の皇室を批判はしないが、憧れと嫉妬がある。女系天皇とはまさしく自分たちが併合する為の手段なのだ。
白村江の戦いのウソ
今日は白村江の戦いについて書く
新羅が唐に寝返ったので、日本も救援をするかどうか
議論が始まった。
皇極天皇(この時は斉明天皇)は派兵を渋っていたが豪族らの要請によりやむを得ない状況になった。
しかもこの時高齢の女帝であり九州まで行くのも一苦労だった。
敗北した要因は?
よく言われるのが船の技術とされるがそれは誤りだ。日本も船を造れる海洋国家だった。木造なので台風に耐えられないが通常は安定していた。
下の図が唐側の楼船というのが通説だがこれは北宋の時のもので唐のものでは無かった。当然、時代に合わないということになる。創作ではないかという説があっても違和感はない。白村江から約400年後のことであるから口伝でしか知りようがない。
出展 武経総要
むしろ日本側は潮の満ち引きを知るものが居なかったことである。船が暗礁に乗り上げることも珍しくなかった。なんせ河口は狭くそんなに沢山攻めることは出来ない。
皇紀2610年(昭和25年)に勃発した朝鮮紛争でダグラスマッカーサーは仁川上陸作戦を決行したが、あれは奇跡といえる。成功率0.1%にも満たない作戦だった。これにより北側の軍は一時的に撤退した。
日本はわざわざ4万近くの大軍を上陸させず遠回りして攻めた。
支那(唐)は2万弱だった。しかもほぼ観戦状態だった。
数の原理では日本が勝っててもおかしく無かった。原因としては支那側の特攻作戦、それも突撃時に乗組員は味方船に飛び移るやり方だった。
これにより連鎖的に日本軍はやられる。船同士がぶつかって転覆するわけだから。
また兵站、この当時では矢の補給を怠ってたことである。大砲や鉄砲は無く、敵船に飛び乗るか弓矢で射るしか方法はなかった。この時の火薬は質も劣っていて湿気が天敵だった。
現代なら弾薬に酸素が僅かながら含まれていて宇宙空間でも弾を撃つことが出来る。
纏めると日本側は兵站を軽視したのと地形を理解できなかったものが多かったことである。
茶番劇だったのか?
日本書紀にしかないことで、朝鮮の歴史書には日本軍が来たことはどこにも書いてない。実際はそこまで激しい戦いではなかったようだ。唐の歴史書では数千の派兵とある。なんせ日本は地政学的に重要だから半島にこだわったのだろう。
そもそも支那の歴史書には日本ではなく倭とある。つまり当時の支那の見解では日本と倭の2カ国に分かれていたことになる。少なくとも遣隋使の時には日本という国が認識されていた。独立国であり属国ではなかった。
では、倭はどこにあったのか?九州の王国なのか?
戦いそのものを藤原氏がでっち上げたのだろうか?
その後、国防はどうなったのか?
天智天皇は大津の宮に遷都する。また、九州を警備を強化する。てか支那から見たら朝鮮半島を攻撃するのに苦戦してたし、わざわざ海を渡って日本を侵略などコスパが悪かった。
遣隋使の時代に煬帝は高句麗の遠征に何回も失敗してる。理由はゲリラに苦戦したから。また北側は山地が多く攻めるのも困難だった。
その後、遣唐使は新羅の海賊行為を取り締まるつまり治安維持が困難になり結果、大回りすることになる。また船の速度も早くないので、正月の儀式に間に合わせる為には台風の季節に南シナ海を通ることになる。結果、航海は命がけになる。それでも日本人は唐の皇帝側に護られた。
遣唐使廃止は白村江の戦いから200年くらい後のことである。自分を犠牲にしてても唐に渡った先人は凄い。
敵国条項削除か9条改正、どちらが先か 2682/6/25更新
敵国条項について
を参照に。
敵国条項から日本は外れてないのが現状だ。平成7年12月に国連は賛成155票反対0で削除可決には動いているものの緊急度の低い課題として残っている。
日米安保やNATOなどがあるが、条約は国際法より優位性が低いとされる。
北方領土問題について
ウクライナ事変で日本は日米安保によりウクライナ側を間接的に支援している。また、ロシア艦隊は日本の周辺(公海や国際海峡)を周回している。領海は通行するのは許されている。
プーチン大統領と経済面や拉致問題では日本政府と連携している。しかし、領土問題については一歩も譲らない姿勢をとってる。そもそもロシアは不凍港を確保するために四島は重要となってる。
しかし、その周辺に自衛隊や米軍の基地が置かれると困るのはロシア側である。
ロシアも日米を敵に回して領土を護ろうとは考えてない。
また米露は核保有国で互いに冷戦時は対峙していた。キューバ危機の時はまさしく一歩間違えると第三次大戦になっていた。
ラヴロフ外務長官は敵国条項を引き合いに平和条約締結すら否定している。
過去に自衛隊がスクランブルしてロシアの領空侵犯を追い返した(昭和62年)こともあった。
ロシアにとって日本の米軍基地撤退は都合のいい話である。
実際は米軍基地を動かすには議会の承認が必要であるが、もし米軍基地が撤退したら
日本にとっては命取りである。
敵国条項を消すには日米で露に対話するといったことが求められる。
その為に、露にサンフランシスコ条約の追認とヤルタ協定無効確認と
大西洋憲章の遵守してもらうしかない。
尖閣の領海侵犯
支那(国民党)は尖閣に石油があると話を聞くと度々領有権を主張してきた。まず台湾つまり、国民党が領有権を主張した。次に支那人民共和国側が国際的に承認されると台湾は一国二制度などと建前をつくって領有権を主張した。
いわゆる海のゲリラ集団だ。国防省の方では年々領海侵犯は増えている。
あの民主党政権の時に船長を逮捕して、支那から圧力を受けて釈放した間抜けなことを日本はしたのだから。
この時は軍事ではなく警察権つまり海上保安官が取り締まっていた。
つい最近では支那の公船が入ってきて警告を鳴らしていた。
ゲリラではなく病院船で攻めてくる様になった。尖閣はじめ南シナ海を統制しないと制空権はおろか制海権も維持できない。
尖閣諸島は無人島であるため、日本国憲法の主権である日本国民の幸福追求権があるかと言えば言い切れない。
かつて自民党はヘリポートを建設しようとしたら支那政府から抗議が来て撤去してしまった。
トランプ大統領(当時)は尖閣諸島が日本領と認識しているであろうと筆者は考えてるが、占領されたら元も子もない。バイデン大統領が同じことをするかはわからない。
沖ノ鳥島でさえ台湾も支那も岩と認識していて日本は国際法違反してると主張している。
日本側は沖ノ鳥島で食用の海産物を採取するなどして国際法に則った「経済活動が維持可能であること」をアピールしている。
同じように現段階では日米が軍事施設を置き共同で石油開発をすることくらいしか出来ない。しかしこれには支那も黙ってないし、いずれ刺激することになる。
筆者の意見は?
筆者はまず、敵国条項削除が最優先と考えてる。その為に岸田総理は常任理事国5カ国を全て回って友好関係を修正べきである。
日支平和友好条約(2638)では主権がどこにあるのかは書いていない。魚釣島のことなどは明記されておらず台湾のことについては書かれていない。そのため条約の修正が必要である。
日ソ共同宣言(2616)では色丹と歯舞については返還し、のこり2島+アルファは平和条約締結後に解決するとある。
また、エリツィンやプーチンは日ソ共同宣言を有効とみている。こっちのほうが現実味があるとみてる。
条約修正となるともちろん容易ではないが交渉していく必要がある。その一方で英米をどう説得するかである。
本能寺の変とは
今日は本能寺の変について書く。
これについては光秀単独犯か複数犯に
分かれる。
本能寺の変、当日の状況を整理しておく。
信長の泊まった本能寺はせいぜい40人ほどの収容人数。
つまり、護衛の兵士は殆どいなかった。
さらに信長の家臣たちは数万の大軍を動員し兵站は確保できたし講和を結べる段階だったのでわざわざ援軍を信長は送る必要は無かった。
信長は本能寺とコネがあったのか?
信長は右大臣、副総理か官房長官相当の地位であった。また彼は征夷大将軍か太政大臣になるために朝廷を大切にしていた。
皇室と繋がりのある寺だったから信長にとって大切な場所だった。
そして信長は楢柴肩衝という名茶器を欲しがっていて、そこで茶会を開く予定だった。信長は国だけでなく茶器まで大切にしていた。日本の三大茶器に触れることで新しい政府のリーダーとしてそして内戦を終わらせようと
朝廷は勿論公家や高僧(ただし武器を持たない僧侶)まで招かれる予定だった。
信長は比叡山を焼き討ちしたと記録にあるが、当時の延暦寺は戒律を蔑ろなして武装していたから信長は警戒心を高めていた。
本能寺は武装集団はいなく安心だった。
本能寺の変当日に何があった?
そして明智光秀は亀山城に6月1日つまり前日の午後8時までいた。本能寺の距離までは20キロほど。しかし、甲冑を付けたまま歩くと速度はかなり遅くなる。しかも13,000人も兵士が歩くとかなり混雑するし目立つ。
ここから筆者は仮説を立ててみた。
本能寺を大人数で囲むなど非効率すぎる。実際は3,000人ほどではと私は仮説を立てた。また信長の長男信忠は二条城に数百人程度で立て籠もっていた。
光秀の軍は実は亀山城から武装つまり鎧兜を解いて丸腰でそのまま歩いて行ったに違いない。
これだと時速4キロの場合、徒歩で5時間かけて本能寺にたどり着くことになる。さらに前日の大雨で桂川は氾濫していた。そのため道路はぬかるんでるので大回りをすることになったと考えられる。桂川を越えるのも至難の業だった。
また夏至の京都は4時ごろには明るいと考えられるからギリギリ現場に居合わせることになる。しかし、明智軍とて数時間も歩いたら疲れる。疲れた状態で戦闘など考えられないから休憩をちょくちょく挟んだであろう。
また光秀は信長の首を取ることを計算に入れてるから銃火器は使わなかったと考えられる。フロイスの記録から最初に明智の兵は弓矢を放ったとある。また明智軍は宣教師を攻撃しなかった。
しかし、実際は信長は本能寺に火をつけて自ら本能寺と共に燃えたとされる。武士としてのプライドだった。生首をさらすのは罪状をさらすのと同じである。
光秀は信長の首を取れなかったから大失態を犯した。そして山崎の戦いで圧倒多数の軍を率いる秀吉に敗れた。秀吉は、光秀同様武装を一度解除してその後船で甲冑を運送し現地で装備を整えた。甲冑は20kgはあるから移動するときは基本馬にひかせるか船で運ばせる方が効率が良い。さらに秀吉は近畿地方の有力大名を味方につけるため信長は生きてるとほぼデマに近い情報を流した。骨だけ残っても特定など当時は不可能だった。
明智光秀はイエズス会ともコネがあった。イエズス会は光秀をエージェントにして信長にとどめを刺そうとしたとされる。
光秀は一夫一妻をとり、娘もキリシタンだった。基督教は基本一夫一妻制である。信長が全国統一する上で火薬を集める為に信長をうまく騙していたとされる。
本能寺の変の2年前に九州の大名の領地がイエズス会の土地になったことから信長も秀吉も警戒していた。しかし、この時九州はまだ信長に征服されてないが全国を統一する計画があった。
光秀は信長の動きを少なくとも探ってはいた。そして本能寺で茶会を開こうとしてる隙をつこうとしていた。
もし本能寺の変が無ければ、織田幕府が開かれていたに違いない。あるいは太政大臣になっていたに違いない。信長は全国を支配する野望があったし、イエズス会を晩年は敵視していた。
そして秀吉が全国を統一するのは本能寺の変から8年後だった。
秀次を暗殺させた黒幕は?
今日は豊臣秀吉の甥の秀次について書く
秀吉の姉の子どもで後継候補だった。しかし、秀頼が生まれるとのけものになったとされる。
本当はどうだったのか。そもそも秀頼は幼いがあの六天魔王信長の落胤である茶子の息子である。
血筋からしたらかなり強い方である。
そもそも茶子は信長と従兄弟の市の娘である。市は信秀の養子になる。養子縁組は武家では珍しくないことだったし従兄弟同士での結婚だった。
織田信長は右大臣つまり副総理か官房長官止まりだった。征夷大将軍つまり総理大臣とも言える足利義昭を追放するのに天皇に嘆願したくらいだった。そして朝廷からオファーが来ると拒否した。
羽柴秀吉は征夷大将軍になるために足利義昭の養子になろうとするが却下される。太政大臣になる為に藤原氏の養子になりなんとか豊臣の姓を与えられる。
さて、秀次は秀頼が元服するまでは関白代理と約束をされた。
秀次には子供も沢山居た。彼らも後継者になりうる。
秀吉は信長の孫である秀頼の方が理解を得やすいと考えていた。
さて秀次を自害に追い込んだのは誰か?
これには説が複数あるがこの中でも家康とイエズス会が有力とされる。
家康は秀吉の死後、関ヶ原で勝利する。そして秀頼を差し押さえて征夷大将軍に就任する。家康は正当な国家権力としらしめした
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。
家康は画策していたことから可能性は十分ある。秀頼の息子を捕まえて処刑したと記録に残っている。(ホントかウソか知らんが)
秀次が生きていたら家康は立場が逆転していたであろう。
秀頼が幼いことを逆手にとって秀次を追い込んだとされる。
次に当時のイエズス会説である。
秀吉は宣教師を追放した。しかし、経済活動は認めたのでキリシタンは入りたい放題だった。この時毒薬ヒ素も取引されていた。
当時のキリシタンは日本人少女を売春したりするくらいやばかった。秀吉が怒りを示したのも分かる。スペインやポルトガルは当時、日本に火薬を売る代わりに奴隷貿易をした。
日本は白人が奴隷にしていた黒人が侍になれた。信長の家臣弥助は元は宣教師の奴隷だったが、信長に気に入られて家臣となった。
そして本能寺で逃亡して生き延びている。明智光秀ですら捕虜にしなかった。当時のイエズス会は本能寺の黒幕説さえあるのだから可能性は0ではない。
この2説が代表されるが真相は不明。むしろ秀吉は秀次に所領の4/5を与える約束をしていた。秀次は自ら事態を大きくさせないために自害したというのは間違いない。
いや追い詰めたのが誰かだ。最終的に得してるのは家康だから家康説を私は取ることにした。
安徳天皇の最期
その時に平清盛夫人は安徳天皇とともに入水したとされるが本当にそうだろうか。
そして崇徳上皇と後白河法皇は争って崇徳大帝側は敗れて四国へ落ち延びた。
そこで非業の死を遂げた。宝年23
安徳天皇は四国、それこそ隠れるための場所があったとされる。
壇ノ浦の戦いでは安徳帝は別働隊に護られながら四国の高知県にまでたどり着いた。
潮の満ち引きを把握していた漁師を金で懐柔したと言われてる。
この時影武者だった子どもは三種の神器と共に沈んでしまったとされるが真相は不明。
また後鳥羽天皇が既に即位していて二重権威と言える状態だった。
平家の落人が多数住んでいたし、高板山は皇の居た山と言われた。
鞠ケ奈呂陵墓は宮内庁指定の陵墓になってる。同じく九州や山口県にも宮内庁指定の墳墓かある。
少なくとも安徳帝は入水などしてなかった。
宝算は諸説あるが、安徳帝は匿われたし源頼朝でさえ処刑しなかったであろう。
後醍醐天皇の建武の新政とは
今日は後醍醐天皇について書く。
諱は尊治という
鎌倉幕府は元軍を2度も撃退した。夜襲して元と高麗の船を火の海にした。
それはさておき鎌倉幕府からの恩賞はほぼ無いに等しかった。なんせ侵略してきた敵を撃退しただけだからだ。またこの時土地は兄弟平等に相続するので零細化が進んだ。
こうしたことから武士の不満が爆発した。
そもそも将軍も執権も天皇が任命してきた。
しかし、天皇は政治的には責任は取らない。
かつて平成21年8月末に政権交代があった。これは言うまでもなく大半の国民が自民党に不満を持ち民主党政権を誕生させた。
しかし、3年後の12月の選挙でに自民党が返り咲いてる。まあ参議院は平成22年(紀元2670年)7月の選挙で民主党過半数割れを起こしてる。
それと同じで武士の間でも農民の間でも幕府への不信感が高まってきた。
そして足利尊氏らが立ち上がった。しかし、
普通に考えたら幕府に逆らった賊軍である。
そこで後醍醐天皇のお墨付きを得て倒幕に手をつける。
現代の選挙とは武器を使わない合法的な戦いと言われる。
この時、武家でなく公家まで不満があった。鎌倉幕府の御家人が公家らの土地を取り上げたからだ。
鎌倉幕府が全国を統一すると公家らは虐げられてた。なんせ義経討伐の時でさえ九州の御家人まで動員してたからだ。
足利尊氏らは倒幕したもののまだこの時は無役職である。
議会を解散させ、与党の党首にはなったものの、まだ政府のリーダーではないのと同じ。
話はもどり、後醍醐天皇は公家を重用した。
朝廷とつながりのある公家に政治を任せようとしたからだ。
この時、既に武士たちの不満は公家にまで向いていた。でも考えたら分かるが、公家は武士から土地を取り上げられて元に戻そうとしたのだから公家は間違ってない。
そして足利尊氏と新興武士つまりポットでの新参者との戦いになった。
足利尊氏が勝利すると後醍醐天皇は公家に庇われながら吉野へ亡命した。