安徳天皇の最期
その時に平清盛夫人は安徳天皇とともに入水したとされるが本当にそうだろうか。
そして崇徳上皇と後白河法皇は争って崇徳大帝側は敗れて四国へ落ち延びた。
そこで非業の死を遂げた。宝年23
安徳天皇は四国、それこそ隠れるための場所があったとされる。
壇ノ浦の戦いでは安徳帝は別働隊に護られながら四国の高知県にまでたどり着いた。
潮の満ち引きを把握していた漁師を金で懐柔したと言われてる。
この時影武者だった子どもは三種の神器と共に沈んでしまったとされるが真相は不明。
また後鳥羽天皇が既に即位していて二重権威と言える状態だった。
平家の落人が多数住んでいたし、高板山は皇の居た山と言われた。
鞠ケ奈呂陵墓は宮内庁指定の陵墓になってる。同じく九州や山口県にも宮内庁指定の墳墓かある。
少なくとも安徳帝は入水などしてなかった。
宝算は諸説あるが、安徳帝は匿われたし源頼朝でさえ処刑しなかったであろう。