後醍醐天皇の建武の新政とは


今日は後醍醐天皇について書く。

諱は尊治という

 

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後醍醐天皇 画像 Wikipedia

 

鎌倉幕府は元軍を2度も撃退した。夜襲して元と高麗の船を火の海にした。

 

それはさておき鎌倉幕府からの恩賞はほぼ無いに等しかった。なんせ侵略してきた敵を撃退しただけだからだ。またこの時土地は兄弟平等に相続するので零細化が進んだ。

 

こうしたことから武士の不満が爆発した。

 

そもそも将軍も執権も天皇が任命してきた。

しかし、天皇は政治的には責任は取らない。

 

かつて平成21年8月末に政権交代があった。これは言うまでもなく大半の国民が自民党に不満を持ち民主党政権を誕生させた。

 

しかし、3年後の12月の選挙でに自民党が返り咲いてる。まあ参議院は平成22年(紀元2670年)7月の選挙で民主党過半数割れを起こしてる。

 

それと同じで武士の間でも農民の間でも幕府への不信感が高まってきた。

 

そして足利尊氏らが立ち上がった。しかし、

普通に考えたら幕府に逆らった賊軍である。

 

そこで後醍醐天皇のお墨付きを得て倒幕に手をつける。

 

現代の選挙とは武器を使わない合法的な戦いと言われる。

この時、武家でなく公家まで不満があった。鎌倉幕府の御家人が公家らの土地を取り上げたからだ。

 

鎌倉幕府が全国を統一すると公家らは虐げられてた。なんせ義経討伐の時でさえ九州の御家人まで動員してたからだ。

 

足利尊氏らは倒幕したもののまだこの時は無役職である。

議会を解散させ、与党の党首にはなったものの、まだ政府のリーダーではないのと同じ。

 

話はもどり、後醍醐天皇は公家を重用した。

朝廷とつながりのある公家に政治を任せようとしたからだ。

 

この時、既に武士たちの不満は公家にまで向いていた。でも考えたら分かるが、公家は武士から土地を取り上げられて元に戻そうとしたのだから公家は間違ってない。

 

そして足利尊氏と新興武士つまりポットでの新参者との戦いになった。

 

足利尊氏が勝利すると後醍醐天皇は公家に庇われながら吉野へ亡命した。

 

そして公家側と武家側の南北朝に分裂した。

後醍醐天皇太上天皇つまり上皇になったのも同然だった。