夫婦別姓は日本の伝統と言い切れない理由
自由民主党の杉田水脈が結婚しなくて良いと発言したことが話題になっている。
そもそも夫婦同姓は最高裁で合憲判決が出ている。理由は両性の合意のみによるものとある。つまり合意があれば成立するのだから別に男性が女性の姓に合わせることも認められるのである。
よく勘違いされる人が多いが日本は夫婦別姓から同姓になったわけではない。
少なくとも飛鳥時代、紀元1200年代には戸籍らしきものは確認されている。あくまで出国管理のようなものだった。そして紀元1305年の乙巳の変から翌年の大化の詔勅では
戸籍制度が確立された。土地所有者が誰なのか世帯構成について把握する為である。
奈良時代になると三世一身の法や墾田永年私財法により資本主義が確立されそれまでの共産主義による国権が土地を管理することは無意味になった。このことより戸籍の意味は薄れた。
平安時代には菅原孝標の娘など女性は名前を明かさなかった。紫式部や清少納言は本名ではないし少納言とは階級である。女性が名前を明かさなかった理由は呪われるからとか正体を知られるからなどである。平安時代は一概に別姓とは言い切れないところがある。
中世になると御成敗式目により武士の民法が定められた。別姓かどうかについては書かれていない。北条政子は本名ではなく通称とされる。北条は実家の名字であり北条家は平氏の一派である。
姓とは一族全体である。源氏と平氏はこれにあたる。平家とは伊勢平氏のことである。
室町時代も同じく日野富子はあくまで通称となっている。呼び名は住んでいる地名から取られるケースが少なくない。
豊臣秀吉は本名は木下藤吉郎である。羽柴は通称で、姓は織田信長にならい平である。そして藤原氏に猶子となり関白に就任した。その後豊臣姓を賜った。
徳川家康は本名は松平元康である。徳川というのは源氏の分家と主張し得川(河)から変化したものである。もともと新田義貞の男系子孫で得河に住んでいたからという伝承の話に過ぎない。
さて江戸時代になるとキリシタンが弾圧され宗門人別改台帳が作成される。世帯主はどの寺に所属しているのかをはっきりさせた。
宗門人別台帳には世帯主と妻子について書かれているが女性は名前が記されてない。
よって同姓(名字)なのか別姓(名字)なのか不明である。
武士は公式に名字、苗字が名乗れたが
庶民はあくまで通称となってる。識別するために名乗っていたとされる。
そして明治になり西洋に追いつくために戸籍制度が復活した。主に税収や兵役を課すための手段である。さて明治6年の民法では別姓であり、妾を権妻として立場は正妻と対等であった。その間に元老らは英仏を手本に夫婦同姓にした。そして明治31年に夫婦同姓に改められた。
本題の夫婦別姓が日本の伝統かというと、別姓から同姓に突然変化したのではなく初めの方は別姓で途中から不明になりそして100年ほど前に同姓で定着した。女性が名前を明かさないことと通称で定着していたことから明治までは一貫して別姓であったとは言い切れない。
そして、筆者は選択的夫婦別姓に否定的な立ち位置にいる。
子供の姓てか苗字はどうなるのか。兄弟別姓になるのか。そうした点からも家庭の崩壊が始まってる。当然、離婚しやすくなり親権の問題も多くなってくる。
婚外子の場合は母親の戸籍に入る。江戸時代までは父親の姓だった。理由は父系主義だから。そして戦後になり男性が女性の姓を名乗るケースが4%はいるのである。
欧米は別姓もいれば複合姓が多い。
フランクリン・デラノ・ローズヴェルトは
父親のローズヴェルト家と母親のデラノ家から来ている。ヒラリー・ロダム・クリントンは実家のロダムと夫のウィリアム・クリントンである。複合姓をやると長くなってしまうことが懸念される。そして離婚率は欧米の方が高いことが明らかになってる。
国際結婚では原則夫婦別姓。理由は外国人は日本の戸籍を持ってないから。そして女子差別撤廃条約により母親のみが日本人でも日本国籍が与えられるようになった。
皇室の場合は例外で一貫して父系主義である。皇祖神武天皇の父系でない者は皇室に入れないし女性皇族が父系でない者と結婚したら皇籍離脱しなければならない。
旧宮家や皇別摂家の場合、皇籍復帰する上で戸籍というのは血縁関係を示す上で重要になってくる。別姓にしてしまうと血縁関係が分からなくなり遡れなくなる。
こうしたことから伝統を理由に夫婦別姓というのは詭弁である。