本能寺の変とは
今日は本能寺の変について書く。
これについては光秀単独犯か複数犯に
分かれる。
本能寺の変、当日の状況を整理しておく。
信長の泊まった本能寺はせいぜい40人ほどの収容人数。
つまり、護衛の兵士は殆どいなかった。
さらに信長の家臣たちは数万の大軍を動員し兵站は確保できたし講和を結べる段階だったのでわざわざ援軍を信長は送る必要は無かった。
信長は本能寺とコネがあったのか?
信長は右大臣、副総理か官房長官相当の地位であった。また彼は征夷大将軍か太政大臣になるために朝廷を大切にしていた。
皇室と繋がりのある寺だったから信長にとって大切な場所だった。
そして信長は楢柴肩衝という名茶器を欲しがっていて、そこで茶会を開く予定だった。信長は国だけでなく茶器まで大切にしていた。日本の三大茶器に触れることで新しい政府のリーダーとしてそして内戦を終わらせようと
朝廷は勿論公家や高僧(ただし武器を持たない僧侶)まで招かれる予定だった。
信長は比叡山を焼き討ちしたと記録にあるが、当時の延暦寺は戒律を蔑ろなして武装していたから信長は警戒心を高めていた。
本能寺は武装集団はいなく安心だった。
本能寺の変当日に何があった?
そして明智光秀は亀山城に6月1日つまり前日の午後8時までいた。本能寺の距離までは20キロほど。しかし、甲冑を付けたまま歩くと速度はかなり遅くなる。しかも13,000人も兵士が歩くとかなり混雑するし目立つ。
ここから筆者は仮説を立ててみた。
本能寺を大人数で囲むなど非効率すぎる。実際は3,000人ほどではと私は仮説を立てた。また信長の長男信忠は二条城に数百人程度で立て籠もっていた。
光秀の軍は実は亀山城から武装つまり鎧兜を解いて丸腰でそのまま歩いて行ったに違いない。
これだと時速4キロの場合、徒歩で5時間かけて本能寺にたどり着くことになる。さらに前日の大雨で桂川は氾濫していた。そのため道路はぬかるんでるので大回りをすることになったと考えられる。桂川を越えるのも至難の業だった。
また夏至の京都は4時ごろには明るいと考えられるからギリギリ現場に居合わせることになる。しかし、明智軍とて数時間も歩いたら疲れる。疲れた状態で戦闘など考えられないから休憩をちょくちょく挟んだであろう。
また光秀は信長の首を取ることを計算に入れてるから銃火器は使わなかったと考えられる。フロイスの記録から最初に明智の兵は弓矢を放ったとある。また明智軍は宣教師を攻撃しなかった。
しかし、実際は信長は本能寺に火をつけて自ら本能寺と共に燃えたとされる。武士としてのプライドだった。生首をさらすのは罪状をさらすのと同じである。
光秀は信長の首を取れなかったから大失態を犯した。そして山崎の戦いで圧倒多数の軍を率いる秀吉に敗れた。秀吉は、光秀同様武装を一度解除してその後船で甲冑を運送し現地で装備を整えた。甲冑は20kgはあるから移動するときは基本馬にひかせるか船で運ばせる方が効率が良い。さらに秀吉は近畿地方の有力大名を味方につけるため信長は生きてるとほぼデマに近い情報を流した。骨だけ残っても特定など当時は不可能だった。
明智光秀はイエズス会ともコネがあった。イエズス会は光秀をエージェントにして信長にとどめを刺そうとしたとされる。
光秀は一夫一妻をとり、娘もキリシタンだった。基督教は基本一夫一妻制である。信長が全国統一する上で火薬を集める為に信長をうまく騙していたとされる。
本能寺の変の2年前に九州の大名の領地がイエズス会の土地になったことから信長も秀吉も警戒していた。しかし、この時九州はまだ信長に征服されてないが全国を統一する計画があった。
光秀は信長の動きを少なくとも探ってはいた。そして本能寺で茶会を開こうとしてる隙をつこうとしていた。
もし本能寺の変が無ければ、織田幕府が開かれていたに違いない。あるいは太政大臣になっていたに違いない。信長は全国を支配する野望があったし、イエズス会を晩年は敵視していた。
そして秀吉が全国を統一するのは本能寺の変から8年後だった。