終戦時のインフレ

今日は日本のハイパーインフレについて書く

 

前回はジンバブエの話を書いてきたが今回は日本だ。

 

終戦直前に日本はハイパーインフレになった。支那事変からすでに8年たち戦債づけになってた。手形が返せなくなると物理的に資源を無くしていくしかなくなる。

 

そして終戦が近い昭和20年(皇紀2605年)6月から満州や朝鮮に台湾から引き揚げてきて人口は7000万人ほどに増えてしまった。

 

食料は急に少なくなり、畑や工場は空襲でやられてしまった。

生産性は著しく低下したので物価は高騰した。

おまけに手形を刷っても追いつかない。

そこでお金を回らせるために預金封鎖を取った。すると銀行の前に多くの人が殺到してあっという間に閉店になった。

 

国債は借金であり、返さなければならない。当時は金本位制であり戦後になって破綻したのである。

 

金が高騰して結局兌換不能になった。そして

所得税は超累進課税で99%まで跳ね上がり共産主義そのものだった。

 

なんと言ってもみんな貧乏だった。そこで政府は弱者救済のため配給をするがそれでも追いつかなかった。闇市は開かれべらぼうな値段がついた

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闇市 画像出典 Wikipedia

 

 

そして占領軍が米国で売れなかった麦をばら撒いてなんとか回ってたのである。

 

国債とは結局借金で、税金で返さなければならない。100兆の債務を返すのに2兆円で50年スパンで返すならその税金が必要である。

 

現代は金本位制ではなく信用創造といって信用がないと紙幣は紙切れになる。

 

現代ではハイパーインフレは起こりえないが戦後まもない日本は何もない時代だからハイパーインフレが起きたのである。そして朝鮮紛争が勃発するまではかなり日本は生活に困った日々だった。

 

崇峻天皇の暗殺犯は?

今日は歴史上の人物で私が謝りたい人たちがいる。

蘇我馬子蝦夷に入鹿だ

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蘇我馬子 画像出典 ピンタレスト

 

彼らは日本書紀で悪人として描かれてる。

本当はどうなのか検証する。

 

蘇我馬子崇峻天皇を暗殺した人と位置づけられてる。これに疑問を持っている。

 

そもそも蘇我氏物部氏と仏教を受け入れていくかで闘争を繰り返した。

 

蘇我はこのころは立場は危うく、傭兵をつけていた。物部側は強力な軍隊がいた。

 

蘇我は味方を増やす作戦に打って出た。蘇我は文明を取り入れる為に仏教賛成だった。

 

そして聖徳太子や彼の叔父の崇峻天皇を味方につけた。

そもそも聖徳太子の母は穴穂部間人と呼ばれ蘇我馬子の娘つまり馬子は義父だった。

そして豪族らが集まって物部氏は滅んだ。

聖徳太子の放った矢が的中したかはさておき権威者が2人もいたのだから自然と集まってきた。

 

そして馬子は泊瀬部皇子のちの崇峻天皇を即位させた。

仮に恩を仇で返した馬子はなぜ弾劾されなかったのか?そこが引っかかってくる。

 

そもそも蘇我氏は皇族に政略結婚して信頼関係を築きあげた。

 

聖徳太子は十七条憲法を交付したが、作成したのは蘇我馬子だった。冠位十二階も同じ。

聖徳太子はむしろ憲法遵守した側だ。

そして皇子自ら馬子に歴史書を編纂するように命じた。

のちに天智天皇が十九階まで制定する。

 

仮説を立てるなら大伴氏があげられる。

大伴氏も政略結婚に手を出す。大伴小手子は妃だったが、後から嫁いできた河上女(蘇我馬子の娘)を崇峻天皇は寵愛をして嫉妬して暗殺した説である。小手子は馬子に追い詰められると逃亡して自害してる。大伴氏は壬申の乱では天武天皇側についてる。

 

次に直駒である。

日本書紀では馬子の刺客とされてるが、他方では馬子の傭兵に暗殺された説がある。

いや小手子と共犯だった。小手子にとって河上女を追い出して蘇我の所に連れて帰る計画を立てていたとも。崇峻天皇を暗殺して河上女と直駒は駆け落ちしてしまったのだ。

 

馬子は大義を勝ち取りものの見事、直駒を

倒した。

 

馬子は濡れ衣を着せられていた。

 

そして、入鹿は中大兄皇子から厚い信頼を得て今で言う総理大臣に

 任命してもらおうと皇極天皇に嘆願していた。

 

結局、蘇我馬子の志は聖武天皇にまで引き継がれた。というか天皇は仏教を許したのであって自分の意思で受け入れたのではない。豪族たちの総意だった。

日本の歴史は天皇の歴史

今日は天皇の歴史について

概要をまとめることにする。

2700年近く続く歴史でも要点をまとめたら教えるのも簡単である。

新しい教科書を作るべきだ。

そこで私は以下の様にまとめてみた。

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神武天皇 画像出典 Wikipedia

古代天皇

 ウガヤフキアエズ王朝は諸説あるが

神武天皇は73代目天皇でカムイワビレミコトと呼ばれていた。当時、傍系は瑞穂の国と呼ばれ近畿に勢力を拡大していた。しかし、紀元前1世紀に内乱が起こり、神武天皇は討伐を行った。そして都を奈良に移し西日本を統一した。しかし、政治は相変わらず地方豪族が統治していた。皇極天皇まではそれこそ概ね象徴天皇であった。政をせず司祭をひたすら行ってきた。


用明天皇の頃に外国、特に支那から仏教が伝来すると豪族同士が対立する様になった。

よく仏教は朝鮮半島説があるが私は大陸説をとることにする。

豪族同士の争いを無くすために天皇も仏教を容認して新しい国家にリフォームされた。

 皇極天皇の弟の孝徳天皇の時に初めて成分化された律令による統治が始まる。

一時的に天武天皇の様に親族だけで政治をするが、持統天皇の時には豪族たちが政治をする様になる。天武天皇については諸説あるが高向王の皇胤という説を取ることにした次第である。

 

藤原氏の台頭

 

奈良時代平安時代になると藤原氏が閣僚を独占する様になる。理由は藤原不比等が娘を聖武天皇妃にしたからだ。

奈良時代末期に桓武天皇道鏡の様に僧侶が政治に介入するのを恐れて平安京へ遷都するのを許した。

平城上皇は伝統を重んじ平城京に戻すべきだと考えていて自ら戻りそこで崩御してしまった。

以降、1000年余りに渡り都は京都になる。

 

平安時代末期になると平家(伊勢平氏)と源氏(関東の平氏も含む)が争い、源頼朝征夷大将軍、今でいう総理大臣になる。関白太上大臣と征夷大将軍では前者の方が権力は大きい。

現代ではシビリアンコントロールの観点から征夷大将軍内閣総理大臣に置き換えることにした。

 

以降7世紀弱に渡って、武士が内閣を組織する様になる。征夷大将軍を任命するのは天皇の国事行為だった。散乱の時でも天皇は倒されなかったのが奇跡といえる。

 

武士政権が終わる幕末になるとペリーが来て開国を要求する。

この時アジアやアフリカの殆どは白人特にゲルマン人の植民地だった。日本もその脅威と200年近く戦うことになる。

 

植民地にはされなかったが不平等条約を受け入れるしか無かった。

この時、国家元首だった孝明天皇の勅許を得られないまま井伊直弼はサインしてしまう。

直弼は今で言う総理補佐か代理にあたる。

 

そして明治維新となり西洋からあらゆる物を盗んでいく。文明国家になるために政治制度まで近代化された。その一つが西洋民主主義の発明である憲法だった。


大日本帝国憲法は議会は英国式を採用した。

しかし、これは後に欠陥憲法となる。理由はシビリアンコントロールが効かないことや内閣総理大臣の規定があやふやである。また天皇の国事行為は国務大臣の輔弼とあることなど全会一致が求められるものだった。そしてそれが天皇機関説となり内閣全体の基本方針による輔弼と解釈された。


なんせ江戸幕府は250年に対して明治大正そして前昭和合わせても60年くらい。大正時代には元老たちはこの世をさり、彼らの二世や三世など政治の素人集団だった。ノウハウがそのまま通じるとは限らなかった。せめて子孫が若いうちに教育しておくべきではあった


そして第二次世界大戦で米ソに敗れて、占領軍が7年間支配するが天皇は処刑されなかった。当時、天皇は軍の最高責任者と位置付けられていて軍事裁判にかけられてもおかしくなかった。

 

裕仁天皇のちの昭和天皇マッカーサーに自ら嘆願された。責任は私が取ると仰せになられた。もともと満州事変から14年の大戦を望んだのは国民の感情だった。あれだけ大戦に反対された天皇が自ら生贄になろうとしたことに感謝しなければならない。

 

日本国憲法では天皇は象徴と成文化されたが、国民主権とは広い意味では皇族も含まれる。皇族方は戸籍がないから普通選挙権がないのである。

 

古代から飛鳥時代と奈良平安時代に武士政権と大日本帝国に日本国と6分割されるが天皇という地位は変わってない。

日本は神武天皇から126代、瓊瓊杵尊から198代に渡り男系で続いてる奇跡の国家である。

 

革命は起きず誰一人天皇に手を出さなかった。あの家康でも結局手を出せなかったし占領軍も結局、天皇を不問にしたところが凄いといえる。

大嘗祭とは?

令和元年11月14日と15日に大嘗祭が行われた。

大嘗祭は即位した天皇が神様に五穀豊穣を祈る式である。

日没にはじまって明朝まで行われる。

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今上天皇(徳仁天皇)

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皇妃殿下(雅子皇妃)

画像出典 産経新聞オンライン

 

天皇陛下天照大神に五穀豊穣を祈る式である。古来は新嘗祭と同一視されてきたが律令制以降は分離された。

 

天照大神に新米はじめ作物をお供えする儀式である。供え物を移し替える作業を504回も繰り返すのである。

主基殿・悠紀殿と天皇が廻られる。同礼式を2回行うのである。それぞれ外削ぎ・内削ぎである。つまり男神・女神と両方祭られているのである。

 

その後廻立殿にて沐浴を天皇自ら行われる。今回は天皇の体調を考慮して体温に近い水が使われた。古来からは清めの水は冷水であるが、裕仁天皇の代から温水に切り替わった。

 

またかがり火ではなくLEDに切り替えられた。茅葺の屋根ではなく板張りと簡素なものであった。どこか伝統を見失ってる気がする

 

斎田は主基殿・悠紀殿に供える稲の田んぼをである。亀占いを用いて決める。アオウミガメを燃やして現れた旧国名から選出される。

京都府律令制時代は選ばれることはなかった。明治になって全国から選ばれた。

 

政教分離との問題点

さてここから本題の政教分離に移るとする。

戦後、日本国憲法では政教分離の原則がなされてきた。大嘗祭神嘗祭などもその一つとして訴訟が行われてきたが全部棄却されてる。

 

理由としてはあくまで相当とみられる範囲なら問題ないとのこと。現職の総理大臣らが靖国神社参拝にしてもあくまで礼儀的行為であって一から式典に従って宗教的手続きを行ったわけではない。

神社参拝は初詣を例に国民の慣習として広く定着してる。あの日本共産党員ですら神宮参拝してる。

では、切支丹の議員がメリークリスマスと言ったら政教分離にあたるかと言われたら言うまでもなくNOだ。教会に行って礼拝したらダメとかお門違いにも程がある。

 

さて、天皇は政治的責任を取らないから政教分離には当たらない見方がある。

平成7年の最高裁の判決では大嘗祭はすでに執り行われて5年たち国民の生活に不利益などほとんど生じてないことから棄却された。

 

したがって、政教分離とか税金の無駄遣いとか言う前に伝統儀式を重んじることの方が課題である。皇室関連予算は国会で審議されて決まる。

皇族とて世襲制かつ終身制の公務員という解釈があるから限られた額で運営されている。

保険もなく、貯金すら厳しい皇族をさらに切り詰めた生活にさせるのは不敬でしかない。

 

国会議員は真剣に議論しなければならないであろう。

天武天皇の親政

今日は天智天皇の弟の天武天皇について書く

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まず生年月日は不明で祖父は山代大兄王説あり。少なくとも皇族出身であり天智天皇のはとことされる。

日本書紀では舒明天皇の第三皇子とされている。

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天智天皇崩御して彼は即位するが、彼の兄は崩御する前日まで健在であった。

 

そもそも天智天皇に不満を持つ豪族は多かった。白村江の戦い参加に裁可を下したり、大津の宮遷都を許して豪族の負担を増やしたり横暴だという世論だった。

天智天皇の閣僚たちも次々と他界してしまった。天皇も暗殺されたという説もあれば四国で崩御されたとも。

 

大海人皇子天武天皇)を擁立したのは大伴吹負らであった。壬申の乱で大伴皇子(弘文天皇)を廃位にして追放した。

しかしその後、天武天皇は彼の親族を閣僚に迎え入れてる。

 

寧ろ蘇我のように皇室の私物化を恐れたのである。親族だけで固めて話し合って決める制度になった。

 

高市皇子を今で言う総理大臣に任命した。

憲政史上では東久邇宮稔彦王の様に皇族出身もいた。

 

天武天皇はさらに6人の皇子に吉野の盟約を結ばせた。八紘一宇の手本と言える。6人が協力し合無ければならないものだった。

 

また八色の姓により官職を世襲制にした。これにより身分の低いものは低いままになってしまった。

天智天皇までは官位十九階とよばれ能力や功績で官職を割り当ててきた。しかしこれには豪族たちが争うようになってきた。

 

また豪族たちは仏教を信仰するものが多く神道の権威である皇室にとって脅威であった。

 

そのため天武天皇は融和して自らも殺生を禁止するなどして仏教勢力と和解しようとした

本格的な戒律は鑑真の時まで待たなければならなかった。

 

結局、天武天皇は在位期間は十数年で天智天皇の不満が爆発した豪族らによって即位させられた天皇と言える。なんせ大友皇子より順位は低かったのだ。天皇になるくらいなら出家して僧になると考えていたくらいだった。

 

ここからは推察であるが、むしろ彼は祖父の聖徳太子を尊敬していて自分も名君になりたいと考えていたに違いない。仏教を受け入れて文明国家を建てたかったのだろう。

 

そして十七条憲法に変わって律令を定めるよう詔勅を出して編纂させた。それは後に藤原不比等大宝律令として定める。

 

日本の立憲君主主義はこの時から始まってる。古典的天皇機関説とも捉えることができる。天皇はじめ皇室も一組織であり国家の骨である。

大化の改新・乙巳の変とは

今日は古代日本史の中でもミステリーである乙巳の変について書く

 

あの大化改新の序の口である。

政権を中臣氏が乗っ取るクーデターだったと言っても過言ではない。

日本書紀中臣鎌足を偉大なる指導者と位置付けている。

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教科書にある蘇我氏滅亡はデタラメである。

なぜなら蘇我石川麻呂は暗殺されなかったからだ。また石川麻呂は天皇の畏怖を感じてた

 

中大兄皇子用明天皇の第二皇子で兄に古人大兄皇子がいた。彼は母親の地位が低かった。それでも蘇我入鹿は彼を皇太子にしようとした。また入鹿の政策を中大兄皇子は信用していた。入鹿を内大臣、今で言う総理大臣にしようとしていた

 

一方で中臣鎌足らは豪族で富と財力もあった。その一方で権力を振りかざす蘇我に不満を持っていた。

 

皇極天皇中大兄皇子の母は弟の軽皇子を跡継ぎに一時的に就かせようと考えていた。不満を飼わないようにする為だとされる。軽皇子のちの孝徳天皇を支持する豪族がむしろ多かった。

彼らは山代大兄王が気に食わなかった。結果、643年に滅ぼしてしまった。

 

よく蘇我蝦夷や入鹿親子がやったと言われるがそれは後付け。孝徳天皇即位を企んだ豪族の仕業。案外中臣氏か阿部内麻呂が主犯説もある。

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赤と青は対立関係だった。孝徳天皇皇極天皇の弟で皇族出身だった。昔は長男より兄弟継承が珍しくなかった。

乙巳の変が起きた645年つまり大化元年9月に中大兄皇子の兄である古人大兄王子は自害する。宮中での儀式を汚したとか阿部内麻呂か中臣鎌足に嵌められた説もある。

 

その後はどうなったのか?

そして皇極天皇は退位して孝徳天皇が即位する。孝徳天皇は阿部らを重用した。

全ては阿部と中臣の思惑通りに動いたのだった。

 

ところが阿部内麻呂も原因不明の死を遂げてしまう。

中大兄皇子だとか蘇我石川麻呂の復讐という説もある。石川麻呂も最後は鎌足に図られて死亡した。

 

そうしてるうちに孝徳天皇の家臣たちは次々と変死をして彼は孤独で崩御してしまう。

彼の甥である中大兄皇子は18年経って天智天皇に即位した。

 

天智天皇に不満を持つ者も少なくなかった。理由は白村江の戦い大津宮への遷都を通して豪族は不満が集まってた。それを裁可した

日本の比島の支配

 


 


今日は日本のフィリピン統治について書く

 

フィリピンは初めはスペインが支配してきた。イエズス会が布教活動をしていた。

悲惨なことに少女を身売りにするなど奴隷貿易をして儲けていたのである。

 

約3世紀に渡りスペインは米西戦争で敗北するまで比島を統治していた。

 

スペインがやぶれると米国が比島を統治する。米国は支那大陸に進出するため足かせの場とした。

 

それに不満を持つ者は少なくなかった。

アギナルド率いる革命勢力はクーデターを起こして大統領になる。

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彼は憲法を定め近代化を図った。

しかし、クーデターは鎮圧され逮捕された。

 

米は当時比島を米国に同化させるために英語教育を行い学校を建てた。

第一次世界大戦を迎え、比島からも米軍として欧州戦前に送り込まれた。

 

そして第一次世界大戦後も統治が続いたが、世界恐慌を機に経済効率がマイナスになったので独立する法案を1934年フランクリンルーズベルト大統領の時に可決された。

 

というのも当時比島から安い製品が入ってくると米国からしたら産業が衰退するから、切り離して高い関税をかけることにしたかったからである。

 

そして第二次世界大戦が始まると日本軍は比島に進駐した。日本軍の破竹の勢いに米軍は降伏し70000人余りの兵士が捕虜となった。

その中には比島系米軍までいた。

 

しかし、捕虜収容所までの鉄道インフラなどが少なく絶えず歩かさせられたのである。

 

しかも日本軍にそれだけの食料などないのである。結果、餓死者や病死者が相次いだ。日本軍は無謀に戦線を拡大したからである。補給がなくなると餓死者がでる。1年か2年しか石油も無い国が広大な土地を支配できるとは考え難い。

 

後にこれはバターンの死の行進と言われる。

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そして敗戦が濃くなり日本軍が比島から撤退する時に多くのマニラ市民が虐殺された。撃ったのは日本軍なのか米軍なのか不明である。

 

当時、比島には比共産党が抗日ゲリラとして活動していた。米軍と内通してるものも少なくなかった。f:id:victor4:20191026213947j:plain

マレーの虎と呼ばれた山下奉文大将は極東裁判で死刑判決を受けている。

 

彼が命令したわけでもなく彼の配下ではない陸軍海援隊の勝手な判断でマニラ人が犠牲になったのである。

 

そして戦後、比島のペソには抗日ゲリラの三傑が紙幣に載るようになった。

 

しかし、原住人はあまり使いたくはないし帝国主義自体否定的なのだ。

 

日本の南印統治は失敗したとみるのが正しい。完全に作戦ミスかつ欲張りすぎたのである。どこで決着をつけるのかけじめがつかない軍隊だった。