崇峻天皇の暗殺犯は?
今日は歴史上の人物で私が謝りたい人たちがいる。
彼らは日本書紀で悪人として描かれてる。
本当はどうなのか検証する。
蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺した人と位置づけられてる。これに疑問を持っている。
そもそも蘇我氏は物部氏と仏教を受け入れていくかで闘争を繰り返した。
蘇我はこのころは立場は危うく、傭兵をつけていた。物部側は強力な軍隊がいた。
蘇我は味方を増やす作戦に打って出た。蘇我は文明を取り入れる為に仏教賛成だった。
そもそも聖徳太子の母は穴穂部間人と呼ばれ蘇我馬子の娘つまり馬子は義父だった。
そして豪族らが集まって物部氏は滅んだ。
聖徳太子の放った矢が的中したかはさておき権威者が2人もいたのだから自然と集まってきた。
そして馬子は泊瀬部皇子のちの崇峻天皇を即位させた。
仮に恩を仇で返した馬子はなぜ弾劾されなかったのか?そこが引っかかってくる。
そもそも蘇我氏は皇族に政略結婚して信頼関係を築きあげた。
聖徳太子は十七条憲法を交付したが、作成したのは蘇我馬子だった。冠位十二階も同じ。
そして皇子自ら馬子に歴史書を編纂するように命じた。
のちに天智天皇が十九階まで制定する。
仮説を立てるなら大伴氏があげられる。
大伴氏も政略結婚に手を出す。大伴小手子は妃だったが、後から嫁いできた河上女(蘇我馬子の娘)を崇峻天皇は寵愛をして嫉妬して暗殺した説である。小手子は馬子に追い詰められると逃亡して自害してる。大伴氏は壬申の乱では天武天皇側についてる。
次に直駒である。
日本書紀では馬子の刺客とされてるが、他方では馬子の傭兵に暗殺された説がある。
いや小手子と共犯だった。小手子にとって河上女を追い出して蘇我の所に連れて帰る計画を立てていたとも。崇峻天皇を暗殺して河上女と直駒は駆け落ちしてしまったのだ。
馬子は大義を勝ち取りものの見事、直駒を
倒した。
馬子は濡れ衣を着せられていた。
そして、入鹿は中大兄皇子から厚い信頼を得て今で言う総理大臣に
任命してもらおうと皇極天皇に嘆願していた。
結局、蘇我馬子の志は聖武天皇にまで引き継がれた。というか天皇は仏教を許したのであって自分の意思で受け入れたのではない。豪族たちの総意だった。