日本の歴史は天皇の歴史

今日は天皇の歴史について

概要をまとめることにする。

2700年近く続く歴史でも要点をまとめたら教えるのも簡単である。

新しい教科書を作るべきだ。

そこで私は以下の様にまとめてみた。

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神武天皇 画像出典 Wikipedia

古代天皇

 ウガヤフキアエズ王朝は諸説あるが

神武天皇は73代目天皇でカムイワビレミコトと呼ばれていた。当時、傍系は瑞穂の国と呼ばれ近畿に勢力を拡大していた。しかし、紀元前1世紀に内乱が起こり、神武天皇は討伐を行った。そして都を奈良に移し西日本を統一した。しかし、政治は相変わらず地方豪族が統治していた。皇極天皇まではそれこそ概ね象徴天皇であった。政をせず司祭をひたすら行ってきた。


用明天皇の頃に外国、特に支那から仏教が伝来すると豪族同士が対立する様になった。

よく仏教は朝鮮半島説があるが私は大陸説をとることにする。

豪族同士の争いを無くすために天皇も仏教を容認して新しい国家にリフォームされた。

 皇極天皇の弟の孝徳天皇の時に初めて成分化された律令による統治が始まる。

一時的に天武天皇の様に親族だけで政治をするが、持統天皇の時には豪族たちが政治をする様になる。天武天皇については諸説あるが高向王の皇胤という説を取ることにした次第である。

 

藤原氏の台頭

 

奈良時代平安時代になると藤原氏が閣僚を独占する様になる。理由は藤原不比等が娘を聖武天皇妃にしたからだ。

奈良時代末期に桓武天皇道鏡の様に僧侶が政治に介入するのを恐れて平安京へ遷都するのを許した。

平城上皇は伝統を重んじ平城京に戻すべきだと考えていて自ら戻りそこで崩御してしまった。

以降、1000年余りに渡り都は京都になる。

 

平安時代末期になると平家(伊勢平氏)と源氏(関東の平氏も含む)が争い、源頼朝征夷大将軍、今でいう総理大臣になる。関白太上大臣と征夷大将軍では前者の方が権力は大きい。

現代ではシビリアンコントロールの観点から征夷大将軍内閣総理大臣に置き換えることにした。

 

以降7世紀弱に渡って、武士が内閣を組織する様になる。征夷大将軍を任命するのは天皇の国事行為だった。散乱の時でも天皇は倒されなかったのが奇跡といえる。

 

武士政権が終わる幕末になるとペリーが来て開国を要求する。

この時アジアやアフリカの殆どは白人特にゲルマン人の植民地だった。日本もその脅威と200年近く戦うことになる。

 

植民地にはされなかったが不平等条約を受け入れるしか無かった。

この時、国家元首だった孝明天皇の勅許を得られないまま井伊直弼はサインしてしまう。

直弼は今で言う総理補佐か代理にあたる。

 

そして明治維新となり西洋からあらゆる物を盗んでいく。文明国家になるために政治制度まで近代化された。その一つが西洋民主主義の発明である憲法だった。


大日本帝国憲法は議会は英国式を採用した。

しかし、これは後に欠陥憲法となる。理由はシビリアンコントロールが効かないことや内閣総理大臣の規定があやふやである。また天皇の国事行為は国務大臣の輔弼とあることなど全会一致が求められるものだった。そしてそれが天皇機関説となり内閣全体の基本方針による輔弼と解釈された。


なんせ江戸幕府は250年に対して明治大正そして前昭和合わせても60年くらい。大正時代には元老たちはこの世をさり、彼らの二世や三世など政治の素人集団だった。ノウハウがそのまま通じるとは限らなかった。せめて子孫が若いうちに教育しておくべきではあった


そして第二次世界大戦で米ソに敗れて、占領軍が7年間支配するが天皇は処刑されなかった。当時、天皇は軍の最高責任者と位置付けられていて軍事裁判にかけられてもおかしくなかった。

 

裕仁天皇のちの昭和天皇マッカーサーに自ら嘆願された。責任は私が取ると仰せになられた。もともと満州事変から14年の大戦を望んだのは国民の感情だった。あれだけ大戦に反対された天皇が自ら生贄になろうとしたことに感謝しなければならない。

 

日本国憲法では天皇は象徴と成文化されたが、国民主権とは広い意味では皇族も含まれる。皇族方は戸籍がないから普通選挙権がないのである。

 

古代から飛鳥時代と奈良平安時代に武士政権と大日本帝国に日本国と6分割されるが天皇という地位は変わってない。

日本は神武天皇から126代、瓊瓊杵尊から198代に渡り男系で続いてる奇跡の国家である。

 

革命は起きず誰一人天皇に手を出さなかった。あの家康でも結局手を出せなかったし占領軍も結局、天皇を不問にしたところが凄いといえる。