天武天皇の親政

今日は天智天皇の弟の天武天皇について書く

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まず生年月日は不明で祖父は山代大兄王説あり。少なくとも皇族出身であり天智天皇のはとことされる。

日本書紀では舒明天皇の第三皇子とされている。

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天智天皇崩御して彼は即位するが、彼の兄は崩御する前日まで健在であった。

 

そもそも天智天皇に不満を持つ豪族は多かった。白村江の戦い参加に裁可を下したり、大津の宮遷都を許して豪族の負担を増やしたり横暴だという世論だった。

天智天皇の閣僚たちも次々と他界してしまった。天皇も暗殺されたという説もあれば四国で崩御されたとも。

 

大海人皇子天武天皇)を擁立したのは大伴吹負らであった。壬申の乱で大伴皇子(弘文天皇)を廃位にして追放した。

しかしその後、天武天皇は彼の親族を閣僚に迎え入れてる。

 

寧ろ蘇我のように皇室の私物化を恐れたのである。親族だけで固めて話し合って決める制度になった。

 

高市皇子を今で言う総理大臣に任命した。

憲政史上では東久邇宮稔彦王の様に皇族出身もいた。

 

天武天皇はさらに6人の皇子に吉野の盟約を結ばせた。八紘一宇の手本と言える。6人が協力し合無ければならないものだった。

 

また八色の姓により官職を世襲制にした。これにより身分の低いものは低いままになってしまった。

天智天皇までは官位十九階とよばれ能力や功績で官職を割り当ててきた。しかしこれには豪族たちが争うようになってきた。

 

また豪族たちは仏教を信仰するものが多く神道の権威である皇室にとって脅威であった。

 

そのため天武天皇は融和して自らも殺生を禁止するなどして仏教勢力と和解しようとした

本格的な戒律は鑑真の時まで待たなければならなかった。

 

結局、天武天皇は在位期間は十数年で天智天皇の不満が爆発した豪族らによって即位させられた天皇と言える。なんせ大友皇子より順位は低かったのだ。天皇になるくらいなら出家して僧になると考えていたくらいだった。

 

ここからは推察であるが、むしろ彼は祖父の聖徳太子を尊敬していて自分も名君になりたいと考えていたに違いない。仏教を受け入れて文明国家を建てたかったのだろう。

 

そして十七条憲法に変わって律令を定めるよう詔勅を出して編纂させた。それは後に藤原不比等大宝律令として定める。

 

日本の立憲君主主義はこの時から始まってる。古典的天皇機関説とも捉えることができる。天皇はじめ皇室も一組織であり国家の骨である。