日本の比島の支配
今日は日本のフィリピン統治について書く
フィリピンは初めはスペインが支配してきた。イエズス会が布教活動をしていた。
悲惨なことに少女を身売りにするなど奴隷貿易をして儲けていたのである。
約3世紀に渡りスペインは米西戦争で敗北するまで比島を統治していた。
スペインがやぶれると米国が比島を統治する。米国は支那大陸に進出するため足かせの場とした。
それに不満を持つ者は少なくなかった。
アギナルド率いる革命勢力はクーデターを起こして大統領になる。
彼は憲法を定め近代化を図った。
しかし、クーデターは鎮圧され逮捕された。
米は当時比島を米国に同化させるために英語教育を行い学校を建てた。
第一次世界大戦を迎え、比島からも米軍として欧州戦前に送り込まれた。
そして第一次世界大戦後も統治が続いたが、世界恐慌を機に経済効率がマイナスになったので独立する法案を1934年フランクリンルーズベルト大統領の時に可決された。
というのも当時比島から安い製品が入ってくると米国からしたら産業が衰退するから、切り離して高い関税をかけることにしたかったからである。
そして第二次世界大戦が始まると日本軍は比島に進駐した。日本軍の破竹の勢いに米軍は降伏し70000人余りの兵士が捕虜となった。
その中には比島系米軍までいた。
しかし、捕虜収容所までの鉄道インフラなどが少なく絶えず歩かさせられたのである。
しかも日本軍にそれだけの食料などないのである。結果、餓死者や病死者が相次いだ。日本軍は無謀に戦線を拡大したからである。補給がなくなると餓死者がでる。1年か2年しか石油も無い国が広大な土地を支配できるとは考え難い。
後にこれはバターンの死の行進と言われる。
そして敗戦が濃くなり日本軍が比島から撤退する時に多くのマニラ市民が虐殺された。撃ったのは日本軍なのか米軍なのか不明である。
当時、比島には比共産党が抗日ゲリラとして活動していた。米軍と内通してるものも少なくなかった。
マレーの虎と呼ばれた山下奉文大将は極東裁判で死刑判決を受けている。
彼が命令したわけでもなく彼の配下ではない陸軍海援隊の勝手な判断でマニラ人が犠牲になったのである。
そして戦後、比島のペソには抗日ゲリラの三傑が紙幣に載るようになった。
しかし、原住人はあまり使いたくはないし帝国主義自体否定的なのだ。
日本の南印統治は失敗したとみるのが正しい。完全に作戦ミスかつ欲張りすぎたのである。どこで決着をつけるのかけじめがつかない軍隊だった。