白村江の戦いのウソ
今日は白村江の戦いについて書く
新羅が唐に寝返ったので、日本も救援をするかどうか
議論が始まった。
皇極天皇(この時は斉明天皇)は派兵を渋っていたが豪族らの要請によりやむを得ない状況になった。
しかもこの時高齢の女帝であり九州まで行くのも一苦労だった。
敗北した要因は?
よく言われるのが船の技術とされるがそれは誤りだ。日本も船を造れる海洋国家だった。木造なので台風に耐えられないが通常は安定していた。
下の図が唐側の楼船というのが通説だがこれは北宋の時のもので唐のものでは無かった。当然、時代に合わないということになる。創作ではないかという説があっても違和感はない。白村江から約400年後のことであるから口伝でしか知りようがない。
出展 武経総要
むしろ日本側は潮の満ち引きを知るものが居なかったことである。船が暗礁に乗り上げることも珍しくなかった。なんせ河口は狭くそんなに沢山攻めることは出来ない。
皇紀2610年(昭和25年)に勃発した朝鮮紛争でダグラスマッカーサーは仁川上陸作戦を決行したが、あれは奇跡といえる。成功率0.1%にも満たない作戦だった。これにより北側の軍は一時的に撤退した。
日本はわざわざ4万近くの大軍を上陸させず遠回りして攻めた。
支那(唐)は2万弱だった。しかもほぼ観戦状態だった。
数の原理では日本が勝っててもおかしく無かった。原因としては支那側の特攻作戦、それも突撃時に乗組員は味方船に飛び移るやり方だった。
これにより連鎖的に日本軍はやられる。船同士がぶつかって転覆するわけだから。
また兵站、この当時では矢の補給を怠ってたことである。大砲や鉄砲は無く、敵船に飛び乗るか弓矢で射るしか方法はなかった。この時の火薬は質も劣っていて湿気が天敵だった。
現代なら弾薬に酸素が僅かながら含まれていて宇宙空間でも弾を撃つことが出来る。
纏めると日本側は兵站を軽視したのと地形を理解できなかったものが多かったことである。
茶番劇だったのか?
日本書紀にしかないことで、朝鮮の歴史書には日本軍が来たことはどこにも書いてない。実際はそこまで激しい戦いではなかったようだ。唐の歴史書では数千の派兵とある。なんせ日本は地政学的に重要だから半島にこだわったのだろう。
そもそも支那の歴史書には日本ではなく倭とある。つまり当時の支那の見解では日本と倭の2カ国に分かれていたことになる。少なくとも遣隋使の時には日本という国が認識されていた。独立国であり属国ではなかった。
では、倭はどこにあったのか?九州の王国なのか?
戦いそのものを藤原氏がでっち上げたのだろうか?
その後、国防はどうなったのか?
天智天皇は大津の宮に遷都する。また、九州を警備を強化する。てか支那から見たら朝鮮半島を攻撃するのに苦戦してたし、わざわざ海を渡って日本を侵略などコスパが悪かった。
遣隋使の時代に煬帝は高句麗の遠征に何回も失敗してる。理由はゲリラに苦戦したから。また北側は山地が多く攻めるのも困難だった。
その後、遣唐使は新羅の海賊行為を取り締まるつまり治安維持が困難になり結果、大回りすることになる。また船の速度も早くないので、正月の儀式に間に合わせる為には台風の季節に南シナ海を通ることになる。結果、航海は命がけになる。それでも日本人は唐の皇帝側に護られた。
遣唐使廃止は白村江の戦いから200年くらい後のことである。自分を犠牲にしてても唐に渡った先人は凄い。