黒船来航の時から戦争が始まっていた。

前回までは、江戸幕府鎖国政策について書いてきた。

キリシタンの侵略を食い止めたがその後日本はオランダや支那と貿易をする。

 オランダは英国に敗れてしまう。結果、インドネシアくらいしか支配できなかった。

インドネシアは350年にわたって支配が続く。

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鎖国から約200年後の黒船来航について書く。

江戸幕府はオランダ大使から米国のペルリ(ペリー)が日本に来航して

貿易をするように迫ってくると警告を受けた。

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その10年ほど前アヘン戦争支那が英国に負けた。香港などを没収された。

英国だけでなく米国やフランスらは同じ条約を支那に結ばせて、支那は半ば植民地状態だった。このままいくと地政学的に日本は不利だった。支那の次は日本を狙って太平洋を支配しようと各国の金融や武器商人は考えていた。

 

日本は当時大型の船は禁止されていた。大名が幕府に謀反を起こさないようにするためだった。

 

そして、ペリーに恫喝されて不平等条約を結ばさせられる。

  1. 開港させて外国船を自由に出入りさせること
  2. 外国船に薪や鯨油をタダで与えること

など植民地に近い状態だった。

日本は捕鯨が盛んだったが、食べられるところはみんな食べた。しかし、欧米は油だけ取って捨てていた。

そしてハリスは日米修好通商条約を日本の井伊直弼今でいう総理補佐に結ばせた。

  1. 治外法権(領事裁判権)を認める
  2. 日本側の関税自主権の否定

とまた植民地支配に近い状態だった。理由は日本は当時3000万人いて武士、軍人は210万人と武器を持つ人が多数いた。なんせライフルやアームストロング砲を複製してしまうくらいだった。直接日本を支配すると暴動が起きるし手間がかかる。では経済から搾取しようと欧米の金融は画策した。

この結果、日本では品不足がおこりさらに外国の安い製品に押されていった。

尊王攘夷運動とは白人とくにゲルマン人植民地支配との戦いであった。

植民地支配は金融勢力のやろうとしていたことだった。

治外法権のせいで外国人が犯罪起こしても領事館に身柄を引き渡されてしまう。

明治になってからノルマントン号事件が起こったが、ゲルマン人は船長に助けられたが日本人は見殺しにされた。船長は死刑ではなく禁錮3か月と刑罰だった。

 

大隈重信は英国と交渉するがテロに遭い負傷する。理由は英国の金融勢力からしたら生かしておけなくなってきたからだ。

日清戦争を機に陸奥宗光は英国との治外法権廃止の交渉に成功した。

 

日露戦争では英米の力をかりてロシアを破った。マッキンレー大統領とセオドアルーズベルト副大統領は日米英同盟を提唱した。しかし、マッキンレーは暗殺される。理由はロシアを支援していた金融勢力の反感を買ったからだ。

 

セオドアルーズベルト(フランクリンルーズヴェルトの伯父)は日露の仲立ちをして日露間の講和条約を結んだ

日露戦争から6年後の紀元2571年つまり明治の終わりに小村寿太郎関税自主権の回復に成功する。

しかし、その年に亡くなってしまう。金融勢力にとって最後の頼みの綱であった関税自主権を日本に与えてしまった。小村が気に食わないから毒殺したという見解がある。

 

そのころハワイは日本と同じ島国だが、米国に支配されてしまう。カメハメハ王朝が存在したが、米軍によって虐殺されてしまう。

日本は鉄砲を沢山持っていたから武力侵略をこのときは回避できたのである。

 

日本がもし鎖国をしなかったら、徳川幕府は再びアジアに遠征軍を送っていただろう。

歴史は変わっていたのは間違いない。