関ヶ原の戦いや大坂の陣は仕組まれていた

前回、

イエズス会は金融の差し金だった。 - ヴィクトール総裁の日々

で書いたように

 

戦国時代はイエズス会によって利用されたことを書いてきた。欧州の金融は日本の銀を搾取するために戦国時代を利用した。

それに対して秀吉はスペインと戦うことを口実に世界征服を考えたが半ばで倒れた。

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家康ははじめはキリスト、西洋に寛容な姿勢をとった。

 

当時、英国はスペインの無敵艦隊を破るという勢いであった。

皇紀2260年(慶長5年)に英国は東印度会社を設立した。アジアを植民地支配することを目的に貿易をした。

家康は英国の商人アダムス(三浦按針)から武器を買い付けた。そして石田三成らを挑発して戦争を引き起こした。

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関ヶ原の戦いである。これも印度会社の仕組んだものだった。このとき家康は最新の銃を調達し、鉄砲隊を編成した。英国やオランダは布教活動はしなかった。

石田三成率いる西軍はキリシタン大名も多数いた。小西行長らである。三成は卑怯なことに人質作戦を取る。これもスペイン側が仕組んだものだった。人質を取れば戦う気が大名からなくなる。それを掴んだ家康は細川忠興正室ガラシャを暗殺させた。西軍がやったのではなく実は家康のスパイがやったのである。結果、三成は卑怯者になる

家康は大義を勝ち取った。

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家康は三成の矛先をそらすため会津へ一度侵攻する。しかしこれは自作自演だった。わざと攻めるふりをして、直前で引き返す。そして家康は岐阜までたどり着いた。長期戦になるのを避けるために、三成らを大垣城から出るように促した。

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そして翌朝には関ケ原の合戦が始まる。家康は最新の兵器を駆使して8時間で決着をつける。西軍に大損害を与えた。

 家康は大勝利したかに見えたが、家康は関白にはなれなかった。征夷大将軍に就任し江戸幕府を開いたが、朝廷からは遠ざけられた。

また豊臣家恩顧の大名も東軍に多数ついた。これは英国側の仕組んだわなだった。

豊臣恩顧の大名たちは家康によって改易されたり暗殺されたりしている。

大坂の陣勃発

そして関ケ原の合戦から14年後に大坂の陣が勃発する。家康は豊臣家を倒す口実を作り、戦争を始める。

豊臣家には宣教師がいた。秀頼はスペインから火薬武器といった文明を取り入れるために承認したのである。

このときに出てくるのが大峡銃である。火縄銃の大型版で真田幸村が用いた。

敵の兵士が土を盛って作った土台を壊すためである。徳川軍は大苦戦を強いる。

そして300台の英国製の大砲で大阪城を破壊して講和する。そして大阪城の堀を埋める。それから普通に攻めればよい。結果、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅んだ。

その翌年家康はなくなるが、毒殺されたとされる。

理由は英国にとって家康は脅威になってきたからだ。信長同様英国に歯向かってくると考えたからだ。

 

しかしそれでもキリシタン側、特にスペインは諦めていなかった。伊達政宗はスペインと貿易しようとして徳川から反感を買った。

イエズス会側は島原の乱を起こして、もう一度戦争を起こさせようとした。

 

幕府は4か月もかけて莫大な戦費をかけてこの反乱を鎮圧させた。

こののち幕府はスペインとポルトガルの船の来航を禁止した。

貿易相手国を限定して幕府に逆らわないようにスパイを取り締まるためにあえて書くが鎖国をした。

 

平和国家になったが平和ボケしてしまう。

続く