東京裁判(極東軍事裁判)はリンチ
さて今日は戦後最大の自虐史観
東京裁判について述べる
まず、第二次世界大戦後に占領政府は当時
A級戦犯はじめ戦争に関与した政治家を
断罪しようとした。昭和21年(2606年)4月29日(裕仁天皇の公式誕生日)に元戦犯たちは起訴された。
A級と書いたが元々は条文に基づいて分けられてる。
A 平和秩序を乱した罪
B 人道的な罪
Cその他
と言ったところだ。
しかも、それは戦勝国たちによって行われた。普通に考えて、国際法的に反することだし、明らかに不利になる。刑事裁判で弁護士がつかないのと同じである。軍事裁判は第三国が普通は法と証拠に基づいて行う。
これは法治国家の基本である。
そして事後法という圧倒的に不利な条件で裁かれた。ウィリアム・ウェッブ裁判長はオーストラリア人だった。
裁判には一応弁護士はついた。弁護側はよくよく資料を見ると日本軍は何も国際法に違反してないことを知った。しかし、弁護側の主張は殆ど却下された。都合の悪いことはみんな棚上げにされた。
さらに昭和3年(2588年)まで遡って日本軍が満州事変を起こしたことまで追求してきた。満州鉄道爆破事件はそもそも日本軍がした証拠はないし、日本軍が満州を抑えたことでかえって治安が良くなってる。そもそも至那は軍閥たちが圧政を敷いていた。以後日本軍が占領した所は治安が良かった。
マッカーサー元帥はそもそも国際裁判自体否定的だったし、茶番劇だったと認めてる。意見がまとまらず、ことを片付けるために仕方なく元A級戦犯7人の死刑を認めてる。なんせやり取りを一部始終見ているのだから、日本に罪がないことを認めてるのだろう。
パール判事は全員無罪を主張した。レーリンク判事(オランダ)は死刑反対を主張した。
しかし、彼らの要求は受け入れられなかった。
そして2608年11月4日に判決が下され、11日に刑の宣告が下された。ウェッブ裁判長は高速で判決文を読み上げた。
同年の12月23日明仁上皇の公式誕生日に東條英機ら元A級戦犯7名が処刑された。
本当に明仁上皇がいつ生まれたかは良子皇太后しか知らないが、みんなが知ってる日にわざと占領政府はやったのである。見せしめである。呪いをかけられたのである。
なお、元A級戦犯はサンフランシスコ条約後は殉職(公務死)となってる。捕虜虐待だった。
戦後70年以上たってもなお靖國神社参拝に否定的な人がいる。無罪を最終的に勝ち取ったのだから遺族の名誉は回復されたのも同然だ
そして日本には戦犯はいない。よって元戦犯と書かなければならない。