中ソ対立は作られた2

前回まではソ連中共の関係について書いてきたが、分からない人のために関係図をしめす

 

 

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今日はその続きを書いていく。


ベトナム戦争 

1960年にベトナム戦争が起こると民主党ケネディ南ベトナムを支援した。ケネディはゲリラを取り締まることを口実に北ベトナムに戦争を仕掛ける。

北ベトナムには中共ソ連がついた。

米ソ対立がまた代理戦争で現れた。

 

実質、朝鮮戦争と同じベトナム人の同志討ちだった。そして米ソの代理戦争だった。

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フルシチョフスターリンと違って代理戦争に積極的だった。

直接対決できないなら義勇軍としてそれぞれ参戦させればよいと国際金融勢力は画策した。その下の軍需産業も賛成した。

 

ケネディ共産主義勢力を支援してきた国際金融機関に敵対してきた。


そのころキューバ危機が起こる。隣国にミサイル基地ができたらたまったものではない。


米国金融や軍需産業たちはキューバにミサイル基地を作らせた。そしてソ連フルシチョフにも協力させるように仕向けた。


しかし、ケネディは宥和政策を行い対立を回避した。

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フルシチョフケネディ海上封鎖に対してソ連ハルノートともいうべく書簡を突きつけてきた。


フルシチョフは国際金融勢力の差し金だったのはいうまでも無い。

 

中ソ対立を嫌がるケネディを金融勢力は放って置けなかった。


キューバにミサイル基地がある以上海上封鎖やむなしだった。下手すると第三次世界大戦にまで繋がりかねない。

 

そこで互いに譲歩し、ケネディが大きく譲って和解に導いた。

 

そして1963年11月22日、ケネディテキサス州でオープンカーで暗殺された。

しかも、無名の青年でのちに暗殺されてしまう。

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黒幕はソ連いや支那を支援していた勢力の差し金だった。

ソ連を金融は1960年代には見捨て支那に投資した。


ソ連が資本主義経済へシフトし始めると米ソ対立の口実がなくなってしまう。


米ソ対立から米中や中ソ対立に切り替わった

そして中印対立まで起きた。1950年代は政治思想面での対立だったが、1960年代には本格的に対立になった。


フルシチョフは小規模の企業を認可した。生産性を上げるには賃金が平等では上がらないことに気づいた。

 

米国ではケネディの死後、ジョンソン副大統領が後を継ぐ。

ジョンソンはベトナム戦争を決着つけると公約にして、1964年の大統領選挙で出馬して勝った。


しかし、戦況は悪化して長期化してしまった。トンキン湾事件を起こしてわざと北ベトナムがやったことにしてしまったからだ。

 

米国のマスコミは国民をベトナム戦争に関心を向けさせるために画策してきた。かつて大東亜戦争の時のように。

 

ベトナム戦争で敗戦ムードをメディアは煽りさらに国民の矛先を向けようとするが、失敗した。反戦ムードがあちこちで起こり結果的にベトナムから米軍は撤退した。

 

米軍はこの時、ホーチミンの進軍を断つためにカンボジアを通って攻撃した。

かつてナチス独逸がベルギーに軍を通してもらうのと同じやり方だ。

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しかも、枯葉剤を撒いたことにより奇形児まで生まれてしまうという悲劇を米軍はしてしまった。全部軍産業が戦争してお金儲けするために使われた。

 

米国では反戦ムードが高まりベトナムから軍を撤退させることが決まり、ジョンソンは大統領選挙を諦めて反共産主義共和党ニクソンが当選する。

 

ニクソン共産主義を食い止めるために、味方を増やす外交を試みた。


勿論日本もだ。日本に武装化を求めると、徴兵制がとか戦争になるなどと馬鹿げたことをいう集団が現れた。結果、米中友好にシフトする。

 

アジアが共産主義化するつまり米国民主党のスポンサーの思惑通りの国家になると地政学的に不利になるのが米国だ。


それに反対したニクソンは後に退陣させられてしまう。

 

続く