沖縄戦終戦から75年

今日は沖縄戦から75年になる。

日米戦争における地上戦の一つだ。地上戦と聞くと、硫黄島アッツ島もそうだった。日米戦争の主力は戦艦や空母の戦いであった。

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日本軍司令部の様子 Wikipediaより引用

沖縄戦の1ヶ月前に硫黄島で日本軍は米軍と戦ってる。米軍は3日で落とせると過信してたが35日もかかってしまった。この地点で3万人弱も米陸軍が犠牲となった。市丸中将はルーズベルトに手紙を書いたのは言うまでもない。栗林中将も塹壕を掘り灼熱の中耐えて最期を迎えた。米軍が上陸してから一気に塹壕から出てきて迎え撃つ作戦である。

 沖縄戦でもガマと呼ばれる塹壕に日本軍は立てこもり野戦病院と化した。またジャングルに立てこもるなどゲリラ戦が行われた。日本側は硫黄島の時のように時間稼ぎの戦いが目的だった。少しでも米軍を引き付けておいて倒す作戦だった。

米国の国際法違反

さて、沖縄戦に戻るがこの時米側は兵士だけでなく一般人も攻撃している。日本側の沖縄戦戦没者の内半分は民間人だった。民間人は武器を持ってるはずがない。普通に考えたら国際法違反だ。そもそも市街地を米国は爆撃してる。軍事施設を攻撃するのは合法だが、市街地は違法である。米国は戦時国際法違反を度々おかしてきた。

 

そして、沖縄戦は4月に始まった。戦艦大和は沖縄を助けるために向かったのである。武器や弾薬に食料を積んでた。しかし、米空母からの艦載機で轟沈した。この時日本側には航空機は殆どなかった。前の年、昭和19年の10月から海軍は特攻作戦を立て特攻機として使われたからだ。九州から特攻機が出動して米軍に大損害を与えた。そして沖縄戦では10代の男性まで動員された。徴兵制は19歳からだったが、沖縄では中学や高校生でも動員された。

 

沖縄戦の後

沖縄戦では米兵が2万人弱犠牲になった。そしてこのことは議会でも問題視された。トルーマン大統領は就任して間もない頃で、前任者のルーズベルトとは異なりソ連スターリンの力を借りずになんとか日米戦争を終えようと考えていた。

チャーチルソ連とは強調する気は無かった。あくまでナチスを懲らしめるためでありルーズベルト前大統領亡き後はドイツが5月に降伏して以来、ソ連とは敵視していた。

 

さて沖縄戦のあと、昭和20年10月をめどに九州に米軍はじめ連合軍は上陸作戦を立てていた。オリンピック作戦とも言われる。日本側も支那大陸にいた陸軍を戻して来て本土決戦を考えていた。支那大陸には数百万人の日本軍がいてソ連との戦いに備えていた。

上陸したら数十万人の米兵が犠牲になるのは米国側もわかってた。そんな作戦が通るわけがない。そして、砂漠での原爆実験が成功するとトルーマンはゴーサインを出した。ポツダム会談で米を有利にするためである。そして2発も市街地を核攻撃をしてソ連を牽制した。

 そして、巷では本土決戦したら100万人の米兵士が犠牲になるのをわずか2発の原爆が救ったなどという神話が広がってしまった。

歴史にたらればはない。昭和19年に日本側が降伏を打診していたわけだからその時にルーズベルトが受諾したあるいはトルーマンが休戦あるいは停戦をするなどしていたら原爆など使う必要はなかった。真珠湾攻撃の報復として軍事施設でもない市街地を警告なしに核攻撃した罪が米国にある。